映画『La La Land』感想(ネタバレほぼなし)~どこにでてきた滝廉太郎~

〔 (久しぶりに、新潮文庫からでている伊丹十三の『ヨーロッパ退屈日記』(の、何度も読んでいるスパゲッティのゆで方のところ以外)を読み返して、文体に影響されたので、今回は敬語で書きます。〕



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駅の構内にある千円カットで髪を切りました。

いつものように、若い美容師が、ハサミのさばき方はやや手荒いものの、安い料金でしっかりこちらのオーダー通りに散髪してくれます。

ここで働く美容師のなかには、いつか自分のお店を持つ、という夢を抱えながら一生懸命働いて経験をつみ、お金を稼いでいる人もいるのでしょう。

散髪が終わりました。

鏡で確認すると、これもいつものことですが、髪型の仕上がりは千円以上のクオリティで、たいへん気分がいいものです。

お店を出る時に、担当してくれた美容師に「ありがとう。素晴らしい仕事です。これからも頑張ってください。我々の世代は、勝利しなければなりませんよ」といいながらじっくりと小指にまで力をこめて握手をしたいのですが、そういう隙もなく、彼らのマニュアル通り、スムーズに出口まで案内されてしまいます。

いやはやまったく、マニュアルというものは人間の連帯を妨げるためにあるのでしょうか。



その後、駅から少し歩いた場所にあるレストランでランチをとりました。
サラダバーがあったのですが、ボウルのなかにサラダがなくなっていても、店員の娘さんたちはおしゃべりに夢中でなかなか補充してくれません。客たちがチラチラと視線を送っても、一向に気が付かない様子です。
わたくしはこういうときに、やはりマニュアルは必要なのか、としみじみ思ってしまいます。


『La La Land』


『ラ・ラ・ランド』Music PV“Another day of sun"




映画館で『La La Land』を見ました。

監督と脚本は、ジャズに取り組む若者の猛烈な挑戦の物語である『セッション』という作品の監督で知られている、デミアン・チャゼルという人物です。まだ三十代前半だというのに、熟練の監督のような重みのある演出で、今回もわれわれを楽しませてくれます。

主演は、ジャズピアニストの若者セバスチャン役のライアン・ゴズリングと、女優を目指す女の子ミア役のエマ・ストーン

本作はこのセバスチャンとミアの恋愛や夢や葛藤や挫折を描いたものです。

はじめに

この映画、お金を払って見る価値があるかどうか。

十分チケット代を回収できるくらいの満足感が得られる映画でしょう。
採点するなら80点はあります。普段文句をつけながら映画を見ている私ですら、もう一度見に行きたいと思っています。

特に、なにかになりたい、なしとげたいと思っている若者にとっては、大切な映画体験になるのではないかと思います。


最初の歌と踊りの場面

物語の始まりは、ロサンゼルスまでつづく高速道路のシーンから。
ロサンゼルスへ向かう高速道路は、夢に向かってつっぱしる人たちのエネルギーを象徴したものです。
道路に止まっているそれぞれの車から人がとびだしてきて、最初の歌と踊りが始まります。様々なパフォーマンスがカラフルに、そしてエネルギッシュに展開され、見ている方としては、うむ、なかなか元気が出るじゃないか、と思いました。こういうものを求めて人間はわざわざ映画館にゆくのです。


真面目な2人

セバスチャンとミアの2人とも、はっきり言ってそれほど美男・美女というわけでもありません。セバスチャンは長身のネズミのようだし、ミアの顔は日本人であるわたくしにとっては、映画が始まってからしばらくは金魚にしか見えませんでした。
しかし、そのようなことはどうでもいい。
大事なのは、彼らはとても真面目なキャラクターとして描かれているということです。ここに好感がもてる。セバスチャンはジャズの歴史を大事にし、自分もジャズの歴史のなかの一人であることを自覚し、それゆえに、ジャズに対する考え方の違いから、他人としばしば衝突します。そしてなかなか出世しないことで落ち込みます。

ミアは、セレブになることに憧れてはいますが、同じシェアハウスの女の子たちがパーティーで金持ちのオトコをひっかけることばかり考えているのに対して、そういう安易な成功を求める行動に乗り気ではなく、疑問をいだいています。セレブたちのバカさわぎパーティーのなかにいても、どこか落ち着きません。
2人とも、自分の興味があることや、その世界で生きてゆくということに、真面目すぎるがゆえに、人と対立したり、オーディションでカチコチになってうまくいかなかったりします。

なんと実直で素敵な主人公たちじゃないかと、わたしは感服し、応援してしまいます。
もし2人が典型的な、無責任でうるさくてバカで能天気で、そのくせ正義だのなんだの、えらそうにするようなアメリカ人だったら、こちらとしては席をたってラーメンでも食べに行っていたところです。

理想と現実

セバスチャンは自分の店を持ち、自分が演奏したいジャズを演奏すること、ミアは女優になることを夢見ています。「夢追い人」である以上、理想と現実のはざまで葛藤せざるをえません。
しかし、ミアが現実の冷酷さにノック・アウトしそうになれば、セバスチャンが理想を彼女に問いかけ、励まし、セバスチャンがそうなってしまえば、ミアがサポートします。
理想に生きる、現実を受け入れる。この2つが終始ふたりの関係を揺さぶるのですが、揺さぶられるほど2人は絆を強めてゆきます。まぁこのあたりはよくある、だからこそ共感を呼ぶ、恋愛モノの展開ですな。

夢の追い方の2パターン

これ以上のことはネタバレになるので書けないのですが、わたくしがこの映画を見ていて思ったのは、セバスチャンとミアはそれぞれ、別の夢の追い方をしているということです。
セバスチャンは、現実に出来ること‐それは自分の理想とは離れていることだとしても‐を積み重ねていくうえで、成功のヒントを掴んでゆく方法です。時間をかけて夢に向かって、右斜め上にすすんでゆくようなイメージです。

ミアの場合は、自分の理想があって、それに遠ざかるようなことをしない。何が何でも自分のやりたいことを追求する。そういうタイプです。これは夢に向かって垂直に線を伸ばしてゆくイメージです。

たとえばわれわれが作家になろうとした場合、

①執筆の時間を制限して、仕事をし、人生経験を積みつつ、それを作品に生かす。
②ひたすら、辞書や全集や資料だらけの部屋にこもって作品を書く

とりあえず、この2つがあるわけです。①がセバスチャンであり、②がミアであるということです。

主要登場人物2人に、こういう夢の追い方の違いをもたせて描写しているところ、さらに、その2人を接近・対立させることによって、それぞれの夢や理想にどのような影響があるのかまで描かれているところに、この監督を信頼する理由があるというものです。


レンタロー・タキ

エンドロールを見ていて、滝廉太郎の名前(アルファベット表記)を見つけました。どうやら、荒城の月をアレンジしたものが流れていたようです。どこで流れたのか、わたくしはまったくわかりませんでした。これはもう一度、劇場に足をはこばなければなりません。

全体的に

『フェーム』という映画があります。ニューヨークの音楽学校でスターを目指す若者たちの日々を描いたものですが、まったく、鑑賞に堪えないものでした。
なにが我慢できないかって、この映画の若者たちは、いくつかの真面目な学生を除けば、「スターになりたい」「有名になりたい」といいながら、自制心やプライドがなく、日常を疎かにし、本能のままに生きる下品な獣だらけなのです。やりたいことをやるために、自分を抑えて、やりたくないことも一生懸命にやらなければならない、また、真摯に自分と向き合わなければならないということを、この映画にでてくるほとんどの学生は理解していません。バカ騒ぎしてやりたいことだけをやってりゃいいってものではないのです。

この映画の最後がなんとまあ、ひどいものでした。
この獣フレンズと呼ぶべき若者共が、卒業発表で「私はスターになりたい~♪」とお父さんお母さんの前で歌うのです。

これには、普段はシャンパンを飲みながら、アーティーチョークをかじり、葉巻を吸いながら優雅に映画を鑑賞している私も、怒りのあまり、手に持っていたダンヒルのライターを床に叩きつけたほどでした。
この映画のような「筋の通らない」展開は金輪際やらないでいただきたい、と、強く思うのです。


『La La Land』はその点、しっかり筋が通っていて、見ているこちらとしても気持ちいいことこの上ないものでした。

なによりすばらしかったのは、最後のミアとセバスチャンの顔です。これが本物の大人の顔なのだと、本当の人生を生きる人間の顔だと思います。終盤の展開にはやや無理があるというのがわたしの意見(後述)ですが、これを最後に見れただけで、もうスッキリしてしまいます。



以上が感想なのですが、少しだけ文句を言わせてください。

2人の関係のまとめ方

『セッション』のときもそうでしたが、この監督は恋愛の「はじまり」と「まんなか」をうまく描けても、それ以降をしっかり描くことができないように思われます。唐突に関係が変化したり、物語から「まんなか」以降の恋愛の部分がすっかり忘れ去られているような印象を今回も受けました。

足りない

尺の都合上、しかたなくカットしたのだと思われますが、最後の方の2人の関係の変化のしかたや、2人の成長のしかたに、説得力が足りません。わたくしたちはノーカット版を待つことになりそうです。

人種差別的、白人至上主義的描写・・・・・・という批判

詳しくはネットで調べてほしいのですが。そういう批判があります。私はアメリカ人でもないし、黒人の歴史やジャズの歴史はほとんど知りません。しかし、少しだけ言わせてください。

黒人が始めたジャズを白人が演奏し、語り、踊る、それが映画になる。これは非常に微笑ましいことではありませんか。この映画にジャズをないがしろに、黒人の歴史をないがしろにするような人物がいたようには、また、そういう描写があったようには、日本人であるわたくしには思えませんでした。

wired.jp

白人至上主義的だ、アフリカン・アメリカンが後ろに追いやられている。


なるほど。そういうご意見もありましょうが、物語を通じてそれが表現されていたかというとそうではない。
イギリス人のライターで、WIREDに寄稿するくらいの人物ならば、もう少しわれわれをドキリとさせ、納得させるようなケチをつけないものかと思います。





最後に、本編についてではないのですが、もう一つ文句を言わせてください。

楽しくなる映画?

先週土曜日の王様のブランチで、映画コーナーのレポーターとして指名されたモデルの方でしょうか、ある娘さんが「劇場にいたサラリーマンが映画のあと階段を三段とばしで降りていった」と、この映画が楽しくなる、うきうきするような映画であるというようなことを言っていました。

この映画を見た後、そのコメントを思い出したとき、わたくしはまさか!と思いました。
この映画は最初こそ確かにうきうきわくわく、楽しい映画ではありますが、その後の展開やラストはむしろわれわれの心に迫るようなものであったはずです。見た後うきうきするようなものではありません。
この娘さんや、彼女のコメントにでてくるサラリーマンの男は、目隠しと耳栓をしてこの映画を見たか、『La La Land』が上映されているシアターではなく、女児向けアニメの劇場版が上映されているシアターに間違って入ってしまったとしか思えません。

まったく、こういう表面的すぎるコメントが、日本人が映画を見ることに未熟であることを象徴しているようで、わたくしとしても寒気がするというものです。